深夜枠の視聴率10%超──“世界陸上”は
なぜ高視聴率を取るコンテンツに成長したのか!?
1997年には「世界陸上」の放送権をTBSが取得。日本テレビで放送していたが視聴率が低迷していた。
当時、スポーツ局の陸上班がアテネ大会を担当して、真夏の深夜に放送する予定であったが、当時の専務取締役(のちにTBS社長・会長を歴任)が「陸上世界選手権を成功させるためには、樋口に全てを任せろ!何としてでも樋口にやらせろ!条件は何でも受けてやれ!」という指令が、当時の山田修爾に行き、7月下旬から放送があるにもかかわらず、当時ゴールデンウィーク前に社内のカフェに呼ばれ、「あのさ、陸上やってほしいんだよ、お前に。弘さんが、どうしても樋口にやらせろって、言ってんだよ。やってくれないか?」と言われ、樋口は「何言ってるんですか?僕は陸上なんで知らないし、興味ないですよ。しかも今年の夏ですよね?3ヶ月もないじゃないですか!?」と伝えたところ、山田部長が「わかってるよ。だけどさ、お前もわかってるだろうけど、中継班にやらせたら、日テレでダメになったものやったって結果見えてるだろ?何とかやってくれよ。条件なんでも出してくれって。お金でも何でも出してくれって。」と言われ、「ちょっと考えさせてください。筋肉番付もあるし、特番が秋に2つ決まってるので、時間全くないですよ。その上で、こんな2週間近くあるプロジェクトやるのは流石に寝る時間ないですよ。」と伝えても、山田部長は「もう弘さんから、絶対にやらせろ!って言われてるから、やってもらうしかないんだよ。頼むよ。」と言われ、すぐに条件が欲しいということで、翌日にまた会うことになり、樋口はその翌日に1つの条件を出した。
「寝る時間がないので、全日空ホテルを1ヶ月間押さえてください。自宅にも帰れないので、お願いします。条件はそれだけです。」と伝え、樋口は陸上世界選手権をプロデュース・総合演出することを決断した。ここから茨の道が待っていることになる。
まずは、陸上に全く興味がなく、日本でもマラソン以外の陸上は放送すらも年に数回程度の時代で、「自分が興味を持てなければ、そもそも成功させること、高視聴率を取ることなんて難しい。」しかも、局内でも、「なんであんな日テレでダメになった陸上を買ったんだ?誰がこんなアホなことをしたんだ?」と言われていましたが、受けた以上はやるしかない。日本選手にクローズアップして番組制作はできない。「そもそも各種目で決勝に進出できる日本人がどのくらいいいるのか?ほとんどいないんだろうな。」そこでまずは、陸上の根本である、世界記録を見てみた。そうしたら、走り幅跳び世界記録8m95、三段跳び世界記録18m29・・・「これってすごくない?信じられない距離だ・・・」そこで、演出としては、この記録の凄さに注目する、つまり、視聴者にもその凄さを伝えていこう!
しかも、「その距離がどんなにすごいのかを、一般生活で比較できるような何かを考えて、その比較を見せれば、視聴者もすごいとわかるんじゃないか・・・」そこで、8m95は何と比較すれば良いのか?18m29は何と比較すれば良いのか?「その距離がすごいなぁと理解できる日頃目にする場所で比較しよう!」自身で街に出て探すことにした。そして、その世界記録が出た時の映像とその現場を合成させて、凄さを見せる。
「これは比較できて凄さがわかる!」と思ったのが、電車のホームとホームの間の距離である。早速にJRに電話をして「走り幅跳びの世界記録の映像と駅のホームを合成させたいので、撮影許可をいただきたい。」すぐにNGが来た。「そりゃそうだな・・・」想定内である。そこで、8m95については、「映像を確認して、跳んでる距離の間に何人の人が入れるのか?」おおよそ20人の人が座っていれば入れられることがわかった。一方18m29の距離については、スクランブル交差点がすぐにイメージできた。その距離に近いところを探すべく、1日中探し歩いて、ついに見つけた。
渋谷のパルコPART2とPART3のところの交差点のが斜めにちょうどピタリ18m29だったのだ。「これで合成できる!」自らパルコの許可をとり、パルコPART2の2階からスクルンブル交差点を撮影した。世界記録を持つジョナサン・エドワーズの映像を動かして、アングルも合わせて撮影をしたのだ。
走り幅跳びの距離については、お台場海浜公園の砂浜に20人のご年配のエキストラを用意し、同じくマイク・パウエルが記録した瞬間の映像を動かして、ご年配の方々には、正座をしていただき、お茶を飲んでいただくという演出にして、その上をパウエルが跳びこえるという演出にした。細かい調整後に19人の男女が8m95の跳躍の下に入ったのだ。
このほかにも100mの速さをスーパーカーと合成させた。当時の走り高跳びの世界記録は青山の市営住宅の一室を借りて、3階のベランダで洗濯をしている主婦の目の前にブブカが跳びこんでくるという演出にして合成をした。これで陸上の記録の凄さを表現できる。営業部と宣伝部と連携して、このCMをとにかく徹底的に流してもらうようにした。
一方、「番組そのものの演出テーマをどうしよ?」これは、もう「日本人が陸上を見るなんてそもそもないことだから、いま自分がやっていることをそのまま演出にすれば良い。」つまり、「陸上を勉強する番組にする!」これが世界陸上1997年アテネ大会の演出手法である。タイトルの世界陸上も「陸上世界選手権とか長いし、硬いなぁ。短くして、みんなが話しやすいタイトルにした方が良いな。」こうやって世界陸上というタイトルも誕生したのだ。
さて、“陸上を勉強する番組”とはどうやって表現すれば良いのか?そこで、視聴者の代表として、『視聴者と一緒に陸上の凄さを見る“視聴者の代表”的な著名人を司会として世界陸上顔としてキャスティングしよう!』その後どうしたか?タレント名鑑でアから順番に、番組の顔になりそうな俳優・歌手などをリストアップした。とにかく時間がなかったので、一気に進めた。編成局にも相談して、ドラマのプロデューサーなどにも協力を仰ぐ体制を取った。
そうしている中で、当時の塩川編成部長から電話があり。「今夜織田くんの事務所の社長とご飯食べるんだけど、お前来るか?」と言われたので、「はい、伺います」と伝えて、ホテルに向かった。そうしたら、織田くん、つまり織田裕二氏本人が同席していたのだ。すでに僕が着いた時には、すでに織田裕二氏の事務所の永田社長には概略は伝わっていて、その場で僕が織田裕二氏に交渉をするという設定であった。「今夏に陸上の世界選手権というのがありまして、ぜひ司会をやっていただきたい。」とダメ元で単刀直入に伝えた。そうしたら当たり前ではあるが「僕ですか?僕は陸上なんて全く知らないですよ。」と当然のリアクションであったが、「僕も全く知らないんですよ。だから一緒に勉強しながら見ませんか?そういう番組の作る方にしたいんです。だから陸上を全く知らない方にやって欲しいんです。と伝えて、なんとなんと、ちょうど映画をやらない年であり、あっという間に承諾を取れたのだ。奇跡的ではあるが、時間がなかった分、他の誰かと比較するとかそんなこともなく、一気に決まった。これが、“世界陸上の織田裕二”の誕生である。
もちろん、司会をやったことがなかったので、織田裕二氏を支える女性司会者が必要であり、ここはすぐにイメージできていて、当時ヤクルトの古田敦也氏とは親交があったので、すでにフリーになっていた中井美穂氏の依頼をした。電光石火のキャスティングであったが、この後が大変であった・・・。この2名を営業局に伝えたところ、そもそもこの陸上のライツをTBSに持ち込んだ大手広告代理店が大反発したのだ。理由は単純、芸能人を使って視聴率を取った特番はない!ましてや役者の織田裕二?あり得ない、大反対したのだ。それでも、話は簡単である。当時全ての番組で高視聴率を取っていたから、この大プロジェクトを任されたので、「自分のやりたいようにやる。何も指図は受けない。」会議室に呼ばれたものの、全く無視をして営業の同期には後を頼み、とにかく製作に専念した。その後も製作過程で大変なことがあった。
当たり前ではあるが、僕は中継班でも陸上担当でもない。しかも他局からフリーになったアナウンサーを司会にしたということで、アナウンスセンターがボイコットをし、世界陸上の会議に誰も出てこなかったのである。そこはそこ、役員からの怒りのメッセージで会議に参加することにはなったのだが、一切話を聞かないまま、実況アナウンサー全員が現地アテネに赴くことになったのだ。まさかこのコンビがそのあと20年以上世界陸上の視界として続けることになるとは、その時誰も想像できなかったでしょう。キャスターに織田裕二と中井美穂を起用し、世界のトップアスリートの魅力を視聴者にわかりやすく伝える番組やPRのフォーマットを確立した。
それも仕方がないことである。当時、樋口組と言われ、スポーツ局に配属していたものの、スポーツ局の仕事は一切やっておらず、筋肉番付系の仕事だけやっていたのであるから、局内の外様大名のご乱行のようなものである。
それでも前に進めるしかない。司会者に渡す全ての競技種目の見どころガイドを全て自分で作り、しかも、いまとなっては当たり前になっているが、各競技種目のキャッチコピーをつける、各選手にキャッチコピーをつける、少しでも馴染みやすいようにと、斬新な演出を初めてやったのだ。これが今でもさまざまな番組で行われている演出のスタートである。当時忙しい最中に、キャッチコピーを決めるだけの会議もうやっていたのだ。
こうやって、世界陸上という1つのコンテンツが大ブレイクすることになる、初めて尽くしの演出を思い切って歴史ある陸上競技に取り入れたのである。
さて、織田裕二氏との会議でのことであるが、やはり俳優というものはすごい能力がある。渡してあった各種目の見どころも注目選手の見どころもすべて暗記をするのである。すべてのデータを暗記するのだ。ただし、1つだけ問題があって、データの修正を行なっても、もう無理で修正ができない。本番でも覚えた内容・データしか出てこない。なので、都度訂正を入れることになるのであるが、織田裕二氏の才能を見られた。
だからこそ、世界陸上の織田裕二になったのである。
この世界陸上では、新聞のテレビ欄でも初めてのことを行ったのである。それは、この1997年の世界陸上以前は、出場選手は一切テレビ欄には載せられなかったのです。解説者はもちろん大丈夫、競技種目も大丈夫であるが、生中継の番組欄には、出場選手も「◯◯選手の金メダル獲得なるか!?」なんて憶測の内容は一切掲載できなかったのであるが、それも直接テレビ欄を管理している組織と交渉をして、初めて実現させたのである。これも今では普通になっているが、当時画期的なことであった。
いよいよ本番を迎える。土曜日の深夜の生放送である。日本のサブスタジオから全ての指令を送る。
現地にはいわゆる陸上班がいて中継映像を作る。演出スタッフ陣は日本にいるというスタイルで、あくまでも
日本の視聴者と同じ空間を共有するというスタンスで行なった。実際の競技が始まるのは深夜深くから、なので、そこまでどうやって引っ張っていくか・・・。CM前の実況のコメントは「このあと◯◯選手が出場する◯◯競技です」という実況コメントを数時間引っ張るのである。今では禁止されているようですが、当時はこれも演出手法として、視聴率至上主義の時代でもあり、これも画期的な手法であった。
ところがである。放送が開始して、CMが入る前にコメントをしゃべるように現地に指示を出しても、
実況アナウンサーが読まない、つまり命令を無視しているのである。
基本的に、中継番組では、いったん始まると、実況は全てアナウンサーにお任せなのである。
ただ、そのコメントもストーリーを創るためには、指示をする。それが“スポーツを演出する”ということである。
結局初日・2日目の土日は一切指示を無視された。そして、関係者も日本のスタジオにもあまり来ず、閑散としたスタートであったが、全ての事態が急変する・・・
月曜日の朝に週末の視聴率が出るのであるが、なんと・・・深夜番組であったにも関わらず、10%を超えたのである。その日から全てが変わりました。
放送前には、サブスタジオにたくさんの人が集まりお祭り騒ぎ、代理店も誰もが、“俺がやった!”とばかりに大騒ぎをしていたので、うるさかったから、全員追い出したのだ。まだじゃ始まって2日終わっただけである。
そして、放送が始めった大きな変化があった。
実況アナウンサーが、僕のCM前に送るコメントを全て読むようになったのだ。
視聴率がすべてである。数字が全てである。数字の魔法でもある。
その後視聴率はどんどん高騰していき、世界陸上が、まさか陸上番組が最強コンテンツに変貌を超えた瞬間である。
まさか、この時の織田裕二・中井美穂コンビが、そのあと20年以上世界陸上のキャスターとして続けるとはその時誰も想像できなかったでしょう。
これが、世界陸上誕生の真のストーリーである。
これが、世界陸上誕生の真のストーリーである。